起こされた朝

仕事の日は毎日アラームで同じ時間に起こされる。

今日は起こされないはずだった。

そのはずだったのに、朝5時半、いつもよりも早い時間にスマホのバイブで起こされた。

電話だった。

相手は1ヶ月程前にマッチングアプリで知り合った、5歳年上の人。

 

メッセージの連絡がマメじゃない人だ。多分、誠実とは少し距離のある人。

約束は守らない場合が多いし、良い顔をしたがる。本当は発した言葉とは真逆のことを思ってるんだろうな、と思わされる人。

 

連絡先を交換してから毎日やり取りをしていたが、ここ数日滞ったり、返したりを繰り返していた。

お互いに飽きてきたというか、めんどくさくなってきたのだと思う。

アプリで知り合った相手なんてどちらかが飽きてしまえば急に居なくなる関係だ。

だからこの人も、私の中ではすでに消えかかっていた。

何か特別な想いを抱いている相手でもないし、このまま自然消滅するだろう。

 

そう思っている相手からの、早朝の電話だった。

いつもの癖でアラームだと思い、指をスライドさせてしまった。応答ボタンだった。

 

想いを寄せている相手からでも顔を顰めてしまう時間。だって今日は自分の好きなタイミングで起きる予定だったんだもの。

 

「寝てた?」

朝の支度をしているのであろう相手の生活音が聞こえる。

心の底からのため息が出た。

「寝てました」

それだけ言ってから記憶がない。二度寝をした。

通話は1時間後くらいに切れたことを吹き出しが教えてくれていた。

 

結局昼前に起きて、ただスマホを見ているだけで数時間経った。

この間にもまた、顔写真やプロフィールを見て、左右に指をスライドさせていた。

 

アプリに手を出してから自分の性格がもっと捻じ曲がった。

辞めた方が自分のためになることはわかっているのだけれど、寂しさが邪魔をして退会しても数週間後には登録の手順を進める。

 

パートナーが欲しい気持ちは弱いと口では言っているが、愛されたい気持ちは強い。それが恋愛でなくても構わない。

「愛されたい」と思うことはパートナーが欲しいと同義なのだろうか。自分はそう思わないけれど、「じゃあどういう関係がいいの」と聞かれた時に相手に納得してもらえる答えがすぐに出ない。

 

私はどうしたいのだろう。私の考える「愛してほしい」は何なんだろう。

 

このまま闇雲に出会いを求めたって、探したって無駄な気がする。

同じメッセージを何度も何度も送ることがめんどくさい。

会話を続けて見える相手の嫌なところ。受け入れられなくてまた別の人にテンプレを送る。

 

時間と労力がどんどん食べられていく感覚。

そんな感覚を受けながら、また私は左右にスワイプするのだろうな。

 

 

スイカはそのままより塩掛ける派

 

社会人になって4ヶ月が経とうとしている。

もう8月に入るなあ、なんもしてないのに2023年も下半期かあ、と1人でぶつぶつ言いながら今年初スイカに塩を掛けて口に運ぶ。

 

新しい環境になって、新しい人と出会って、新しいことを覚える。

慣れることにいっぱいいっぱいで、心に余裕が無かった。今も無い。

 

今居る環境は、多分それほど悪くない。

周りからの私への評価も悪くないと思う。

それとなく仲良くできているから、知りたくない深いところも少し見えてきたりもする。

 

私から見えているその人はほんの、ほんの一部分で、その人の全てではないことはわかっている。

でもその少し見えた違和感が大きな印象になって、「この人はこういう人」と(ネガティブな意味の)張り紙を貼ってしまっている。

良いところもある、わかってる、だけど勝手に貼り付けた紙が「でも結局こんな人なんだよ」と見せてくる。

 

どんな人に対しても張り紙を貼るようになってしまって、「この人好き!」って思える人を自分で切り捨てていく。

自分の嫌なところだなと思う反面、私自身がこれ以上傷つかないようにしている対策だから、自衛だから、これは悪いことじゃない、私のことは私が一番大事にしないと誰も守ってくれないんだから、と思っている。

 

これからも私は私が守りたいし、幸せにしたい。まだまだ人生を楽しいと思えていない時の方が多いから、私が楽しませたい。

そしていつか「この人の色んな面を見たい」と思える人に出逢って、心の底から「好き」と思いたい、愛したいし愛されたい。

ただ寂しさを埋めるためではなくて、幸せにしたいとか、守りたいという気持ちで一緒に居たい。これは傲慢だろうか。

 

もう25歳になるという謎の焦りは正直ある。資格がとか、貯金がとか、パートナーがとか、スイカに塩掛けるとか、目玉焼きには醤油だとか。とはいえこれらも私の一部分でしかない。

 

何にも囚われず、私は私を、私として幸せにできたらなと思う。

 

 

自然ライブ

ここ数日は色んな人と会って遊んでいる。

遊んでいると言ってもお酒を飲んでただ駄弁るだけの遊びが多い。

これはこれで楽しい。涼しい部屋で好きな食べ物を食べて、少しアルコールを入れて顔を赤らめながら、普段より大きな声で会話する。「呑みに行く」ってこういうことかあとまだまだ青臭いなりに考える。

 

そんなことを考えながら、日差しがジリジリしていることに気づいておらず外を駆け回っていた子どもの頃を思い出す。あの頃は汗をかくことを嫌がっていなかった気がする。今では汗で服が張り付いたり、化粧が落ちたり、前髪が乱れたり、汗をかくことでいい思いをしていない。

 

夏の暑さと湿気に恨むようになってから、汗をかくことに嫌悪しかなかった私だが、そんな私でも最近気持ちよく汗をかけるタイミングがあったのだ。

 

 

数ヶ月ぶりに会う先輩と晩御飯を食べに行った。2人ともお酒は飲まず、定食を食べた。食後のデザートを食べ店を出たのが21時頃だった。2人とも翌日は休みだったこともあり、その後もしばらく一緒に過ごすことになった。しかし金欠の2人。2軒目に行くことも考えたが、ここ最近のことを話しながら散歩でもしよう、という話になった。

 

少し賑わう路地を抜け、ほとんど人も車も通らないような川沿いを歩き続けた。特別暑い夜ではなかったものの、歩いているとやはり背中にじんわりと汗が湧いてきた。だが川沿いということもあってか、なんだか涼しい。河川敷の雑草が揺れるのがまた風を感じた。

雷が遠くで光るのも時折見えた。雷が光るたび「わ!」と言う先輩。何度目かの雷を見た後「ライブ見てるみたい!いえーい!」と右腕を空に突き上げる先輩。なんだか楽しくなって私も「いえーい!」と右腕を上げた。

 

素面の状態で、先輩と自然に向けて拳を突き上げる日になるとは思ってもなかった。汗もかいた。正直あまりお酒の入っていない時には話しにくい話もした。だけど間違いなく楽しかったし、なんだかここ最近の遊びの中で1番笑っていたような気もする。

 

そして私は先輩のことをまだまだ何も知らないが、尊敬できる人に出会えた気もした。

 

彼女は植物が大好きらしい。一輪の花を見てニコニコの笑顔で「可愛い」と言う。「お花好きなんですね」と言うと「好きというか尊敬する。すぐに枯れてしまうのに1人でこんなに一生懸命に咲いて、沢山の人に影響与えるの。うちにはできひんなあ。すごいって心の底から思う。」と先輩は真剣に語った。

花を綺麗だと思うことはあった。だがそう思うだけで他に想像力を広げることなんてなかった。だから先輩の「想像力」と、「何かを尊敬する気持ち」に私は尊敬した。

 

先輩は「うちにはできひんなあ」と語りましたが、少なくともここに1人、あなたに影響されている人間がいます。あまりご自分を卑下なさらないでくださいね。

 

 

理想

暑い、ムシムシ、じめじめ。これだから夏は苦手だ。

ぼーっとしていてもなんだか肌がベタついてきて気になる。ベッドの上でずっと寝ていたいのに、肌のベタつきから不潔さを感じて布団から出た。

シャワー浴びたり、着替えたりしてまたベッドに戻る。休みの日のルーティーンになってきた。

 

最近は本当にずっとぼーっとしている。何もしていない。ぼーっとする職業があれば適職に間違いないくらい、ずっとぼーっとできる。

何も考えていないわけではないんだけれど、ご飯食べなきゃなとか、そろそろ資料作成しなきゃまずいなとか、記録書かないとなとか、とかとか。

今思うと何ならずっと何か考えているのかもしれない。自分自身ぼーっとしてると感じているし、きっと客観的に見ても私は何も考えてなさそうだ。

でも、頭の中ではぐるぐるごちゃごちゃ、色んなことを考えてしまっている。考えることを放棄したい。

実際、「しばらくこのことは考えるのも進めるのもやめましょう、あなたの負担になるから」と言われた。

でも「何もしない」ことが私の負担になっているのだ。私は何も進めていない中、周りはコツコツと進めている。それを毎日横から、背後から、前から見ている私は焦りを感じていた。間違いなく負担だった。ストレスになっていた。でも何から手を付けたらいいかわからず、そのまま放置。結局何もしない。

 

毎日勝手に焦りを感じるくせに何も行動に起こせない。自分で考えてしたことが間違いで、それを指摘されるのが怖い。指摘されたところを直して、もう一度確認を取って、また違うところを指摘されるかもしれない。それをまた直して、確認取って、指摘されて…こんな繰り返ししんどすぎる。

 

多分私は根性が無さすぎる。だからビクビクしながら、周りの顔色を窺いながら行動して自分の意見を出せずに終わる。

自分の意見を言えるようになりたい。それに反する意見が出たとしても屈せずに自分の意見が言えるようになりたい。

芯の通った、強い人になりたいなあ。

私を見て認めて

昨日の夜、久しぶりに友人と電話をした。

お互い忙しくしていたこともあり、なかなか機会が合わなかったため、数週間ほど空いていたような気がする。

 

彼女とはいつもしんどい事、楽しみがないこと、それをぐるぐると繰り返し話す。

客観的に見ると話が変わったかと思うとまた同じ話に戻り、話が広がったかと思うと元の場所に戻る、進展も終着点もない会話だ。

 

しかし私にとってはこの会話は心地よいものとなっている。

 

彼女は私を否定しない。私も彼女を否定しない。些細なことで褒め合い、考えが同じであるときは激しく共感していることを伝え合う。私たちにとってあまり現実的でない夢を語り合ったり。そんなことを話せる相手は私には彼女しかいない。

 

昔からの幼馴染にも、家族にも、パートナーにもこんな話出すことができないし、こんな形で進められないと思う。

 

たとえば昨日話した内容で言うと「反出生主義」という信念について、二人で激しく同意した。

私たちは二人とも生まれたこと、生きていることに対して絶望している。生まれてきたこと自体に苦痛を感じている。

私はこんな苦痛を他に話すことが可能だろうか。

多分、他の人には話せない。話す勇気がないし、話て相手にどう思われるかを気にしてしまう。そして相手からの返事次第でこれでもかと凹んで、「わかってもらえない」と話を聞いてくれた相手に非があると考える。なんとも自己中心的で愚かだ。

 

こうやって自分の醜さを顔も名前も知らない人たちに読ませ、「自分は周りに理解されない可哀想な人間でしょう?」という文章を綴っているのも馬鹿馬鹿しい。

 

昨日、「たった1人からだけでもいいから存在全てを認めてもらいたい」というどちらから出たかもわからないこの考えに私は共感しかなかったが、しばらくして「果たしてたった1人からだけ」で満足するのだろうかと自分に疑問に思った。

 

「認めてもらう」ことも1人現れればもう1人、また現れればもう1人、と何人もの人から認めてもらおうと求めていくのではないだろうか。

強欲で自分の恥ずべき性格だと思った。

 

これがアニメや小説のフィクションの前振りなら、ここから私の真の理解者が現れて、周りを巻き込むけどその周りさえも味方につけて、苦しいことも悲しいこともあるけれど周りに支えられながら乗り越えて幸せになってーなんていう妄想も広がったり。

 

こんな考えしかできない自分を可哀想に思うが、まあ変えられない、変える気も正直ないので開き直ってこの自分と向き合ってまた過ごしていこうと思う。

 

 

やっぱり怖いな

今、私はこんなところで座ってブログを書いている場合ではない。

やらなきゃいけないことがたんまりだ。でも息抜きに、少し書かせてほしい。

 

現在、デスクの沢山並んだこの広い部屋には私一人が居座り、パチパチとキーボードを打つ音と空調の音が響いている。誰の声もしなくて、とても心地いい。

 

最近改めてわかったことだが、私は騒がしい音が本当に苦手らしい。本は読めなくなるし、作業も止まる。ひどい時には誰かと会話していても話に集中できないことがある。

だから今、誰もいないこの広い部屋にずっと誰も来なかったらいいのにと思ってしまう。

でもそんなこと言ったって叶わない。あと30分もすればみんな戻ってきて、またガヤガヤと話し声が耳に入るのだ。

周りが騒がしい時、どうやって集中すればいいのだろう。騒がしくなくても、ペンのカツカツとした音や、紙をスーッと折る音、キーボードをパチパチと打つ音にも集中力を削がれる。

イヤーマフというものを買ってみたものの、なかなか聞こえるもんで外では使わなくなってしまった。

 

小さい頃からこうだったのだろうか。いや、小中高の時はそれなりに授業は集中して聞けていたし、高校なんて鉛筆や木炭が紙に擦れる音の中、自分も目の前の彫刻に集中できていた。

大学生になってからだろうか。

大教室で後ろの方に座っている人たちが話す声に気が散ったり、何か物音が鳴っている中で教授から教示があると聞いているのに理解が一度ではできなくなった。

今思い返すとあの頃から変だった、と考えつくが、あの頃はまだなんとも思っていなかった。

 

もう少し早く気づいていたらなんとかなったのかと言われると悩ましいが、大学生になってから、自分自身と周りの環境に変化が現れたこともあり、辛かったのかなあと他人事のように思う。

 

大学生になってから家が嫌いになったし、大学生になってから地元の友達とは疎遠になったし、大学生になってから長生きしたいと思わなくなった。

最近ではいつ終わってもいいと思う。明日でもいいし、今でもいい。これからの将来が怖いから、不安だから、まだ若くて身体が動くうちに終わりたい。

 

音に過敏に反応してしまうのもしんどいし、人の顔色を窺って会話をするのも疲れるし、毎日家事をするのもめんどくさいし、自分のことで手一杯なのに他者のことを考えないといけないなんて今の私には到底無理だ。

 

でも自分で終わらせる勇気はないし、怖いから、何かが起こらない限り私は明日もこの席に座っているのだろうな。

 

 

迷惑かけず、苦しまず、やっていきたいな。

ぴえん越えてぱおん、ってやつ

前回の投稿から少し日が空いてしまった。

 

最近はまあ、外に出られている。

本を読んだり、AmazonprimeやHuluで映画を見たり。なんだかんだ外にも出て家の中でも充実して休めてきている気がする。

 

そんな中、昨日久しぶりに同期の一人に会った。外出はするもののあまり会うことはないようにしていたのだが、たまたま顔を合わせてしまった。

 

「合わせてしまった」という語尾を使ったが、別にそう特別嫌なわけではなかった。ただ少し、めんどくさいな、とか、何か話した方がいいのかな、とか、そんなことを思っていた。

 

その同期は割と、結構問題児的な立ち位置に居て、遅刻、無断欠席は常にあるし、先輩や上の人にも噛み付くような、そんな子だった。

でもその子は友達の相談にはとても親身になって聞き、友達が悩んでいることに上が絡んでいるとその子自身が声を上げる、という様な、私には到底できないようなことをよくしている子だ。

 

結局帰る頃まで挨拶しか交わさなかったのだが、私が帰る時に「一緒に帰ろう」と声をかけられたため、最寄りの駅まで歩いて並んで帰ることになった。

 

駅までの道のりでは出会った当初の第一印象の話や、後輩の話、最近のスケジュールの話など色々な話をした。

 

そんな話に一段落が着き、少し沈黙が流れた頃、私はその静かさに耐えきれず、ここ数日どう過ごしていたのかを話した。自分の今の状況を話すつもりは一切なかったが、口が勝手に動いてしまった。話しながら「言うんじゃなかった」と少し後悔していた。

彼女は私の話に「うん、うん」と相槌を打ちながら最後まで聞いてくれた。

「いいじゃん、最高の休み方してるよ。たくさん寝てたくさん食べて好きなことしな。めっちゃ休んでも結構なんとかなるよ。めちゃくちゃ頑張って限界きたから辞めたいって言ったのに、まだ頑張れって言われたら『え?』ってなるよね。なんでわかってもらえんのやろね。」

 

話しながらしていた後悔は話終わる頃には無くなっていた。多分、人に話て少しスッキリしたのだと思う。

だが彼女の「なんでわかってもらえんのやろね」がずっと残っていた。

 

私、彼女も含めると私たちは「わかる人」に囲まれているのだ。だから親と言えど「わからない人」であればきっと何を言って説得しようとしてもわかってもらえない。私たちはそんな領域を学んでいるのだ。

今世間では「理解がありますよ」という風潮が流れている。だがそんな風潮いらないのだ。そんなもの流れている時点で奇異な目で見ている人は多いのだろう。

 

私はこの学問を学んでどうしたいのか全然わからない。世間は「あなたたちのことはわかっていますよ」という顔で全然わかっていないし、それを自覚していない。そんなのこっちがどうしたって、どう研究してどう対策を考えたって、意味がなくないか?

現にこの学問をエンタメとして楽しもうとしている人、楽しんでいる人は多いだろう。売られている本やSNSの影響も強いだろうが、この学問はエンタメやフィクションではないのだ。

 

「何をどうしたらいいのかわからない」を考えすぎてここに興味が無くなってきたのも事実だ。だがまだこれからどうしても触れていなければならない。

うーん。どうしたものか。

何か手軽な逃げ道はないかと考えながら、残りの休暇期間を過ごそうと思う。