私を見て認めて

昨日の夜、久しぶりに友人と電話をした。

お互い忙しくしていたこともあり、なかなか機会が合わなかったため、数週間ほど空いていたような気がする。

 

彼女とはいつもしんどい事、楽しみがないこと、それをぐるぐると繰り返し話す。

客観的に見ると話が変わったかと思うとまた同じ話に戻り、話が広がったかと思うと元の場所に戻る、進展も終着点もない会話だ。

 

しかし私にとってはこの会話は心地よいものとなっている。

 

彼女は私を否定しない。私も彼女を否定しない。些細なことで褒め合い、考えが同じであるときは激しく共感していることを伝え合う。私たちにとってあまり現実的でない夢を語り合ったり。そんなことを話せる相手は私には彼女しかいない。

 

昔からの幼馴染にも、家族にも、パートナーにもこんな話出すことができないし、こんな形で進められないと思う。

 

たとえば昨日話した内容で言うと「反出生主義」という信念について、二人で激しく同意した。

私たちは二人とも生まれたこと、生きていることに対して絶望している。生まれてきたこと自体に苦痛を感じている。

私はこんな苦痛を他に話すことが可能だろうか。

多分、他の人には話せない。話す勇気がないし、話て相手にどう思われるかを気にしてしまう。そして相手からの返事次第でこれでもかと凹んで、「わかってもらえない」と話を聞いてくれた相手に非があると考える。なんとも自己中心的で愚かだ。

 

こうやって自分の醜さを顔も名前も知らない人たちに読ませ、「自分は周りに理解されない可哀想な人間でしょう?」という文章を綴っているのも馬鹿馬鹿しい。

 

昨日、「たった1人からだけでもいいから存在全てを認めてもらいたい」というどちらから出たかもわからないこの考えに私は共感しかなかったが、しばらくして「果たしてたった1人からだけ」で満足するのだろうかと自分に疑問に思った。

 

「認めてもらう」ことも1人現れればもう1人、また現れればもう1人、と何人もの人から認めてもらおうと求めていくのではないだろうか。

強欲で自分の恥ずべき性格だと思った。

 

これがアニメや小説のフィクションの前振りなら、ここから私の真の理解者が現れて、周りを巻き込むけどその周りさえも味方につけて、苦しいことも悲しいこともあるけれど周りに支えられながら乗り越えて幸せになってーなんていう妄想も広がったり。

 

こんな考えしかできない自分を可哀想に思うが、まあ変えられない、変える気も正直ないので開き直ってこの自分と向き合ってまた過ごしていこうと思う。